科学者として新しいことを発見するという仕事にぎらぎらと情熱を注いでいた時、結果的に挫折を味わい、違う道を歩むことになったが、得たものの方が失った時間に比べ大きかった。
科学とは、ある程度戦略(つまり、何か新しいことを発見するために、わかっていないことを調べる)をもって実験を行い、結果を出す。そしてデータをいくつか集め、ロジックを組み立てて論文として発表する。それを繰り返す。
非常に面白いのは、ロジックを組み立てるというのはある種手段であるということ。実は、科学にどっぷり使ってわかったことは、そこには情緒といったらいいのか、あるいは感性といってもいい。そっちの方がはるかに重要であることがわかったこと。なにしろ、発信する相手は、専門家であってもいわゆる人間。人間ということは、機械とは違いものごとを感じる心があるから。
だからというのもなんだが、専門用語を使いつつも、相手の心に響くようなストーリー仕立てで論文はかかれる必要があるのだ。しかも、それがいい雑誌と呼ばれるNature, Cell, Scienceになればなるほどである。
ということは、科学というのは、「何に面白さを感じるのか」、いわば感性の方が強い世界ともいえるのだ。なので、論文には個性も出るし、実は読むと中には感情も出ることがある。そこをみるのも面白い。たとえば、ワトソン、クリークによるDNA二重らせん構造の発見。これは感性抜きではそのすばらしさはわからない。
私自身、最近現代アートについての本に接することが多いが、芸術家と科学者は非常に似ているところがあるのではないかとそういう考えが強くなってきた。
科学には、200年にわたる蓄積があり、その蓄積(つまりそのコンテキスト(文脈))の上に、新しいストーリーを作り上げる。村上隆氏の本「芸術起業論」や「芸術闘争論」を読んでいると、彼も西洋のアートにはコンテキスト(歴史)がありその上に自分の作品を出すのだと。
また、椹木 野衣氏の「反アート入門」には、昔は神を意識することで、個よりもその時代の思想が重視されたが、その思想が相対的になり、個の発信することがますます重要になってきたという流れになっているのだそうだ。
辛美沙氏が「アート・インダストリー-究極のコモディティーを求めて」で、自分の作品を履歴書にどう反映させるのか?そしてどのような一貫したメッセージがあるのか?が重要だといってたが、作品を論文の数に置き換え、個の発信の共通点を考慮すると、そのまま科学者にも当てはまる。いい科学者は一言で語れるわけだから。
物事を表現することとは、すなわち相手の心に変化を与え、新たな気づきをもたらすことだと思う。アートや科学も一言で言ってしまえば、物事を表現する仕事。心を動かすストーリーをいかにつくるか?に尽きるのではないか?
今後、こうった能力はこの二つの世界のみならず、今は他の世界でも求められるのではないかなぁ、と思う日々である。
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